帰巣性



「沖……」
 不意に聞き慣れた低い声と共に腰周りに腕を伸ばされ、熱が纏わり付いて、沖はボタンを止めていた手を休めた。
 季節は巡って秋になり、夕方ともなるとひんやりした空気が肌を刺すので、自然と着替える場所はベンチ裏から狭い部室へと変わって行った。
 今、その部室には自分と阿部の二人しかいない。
 少し前まではまだ部員が数名いたのだが、それぞれ着替え終わるとさっさと練習へ向かってしまった。だた、偶然二人きりになったわけではない。
 かといって示し合わせたのかといえばそうではなく、沖はいつもよりゆっくりと練習着のボタンを嵌めていただけで、阿部はいつもより丁寧にデータ表を読み込んでいただけだった。
 それが、あわよくばというお互いの欲を持って作り上げられた状況なので、偶然とは言いがたい、それだけのこと。
「うん」
 かけられた言葉に優しく頷いて返すと、止めていた手を再び動かして残りのボタンを全て嵌める。そして後ろから自分に纏わりつく阿部のごわごわした頭をそっと撫で、ゆっくりと腰を下ろすよう促した。
 たまに二人きりになったとき、こうして阿部が甘えてくることがある。
 普段、理性的で相手に対して冷たい印象を与える彼からは想像もつかないが、低い声をさらにワントーン落として少し寂しげに名前を呼ぶ。
 それが合図だった。
「みんなもう柔軟始めてるかな」
「……たぶんな」
 甘えるといっても子供みたいに駄々をこねたり縋るわけでもなく、甘い言葉をかけるわけでもなくただ、沖の腰に纏わり付いてそっと抱きつくだけだ。
 今日は沖もなんだか甘やかしたい気分でもあったので、畳の上に正座をして座ると、自分の膝の上に阿部の頭を乗せた。
 少し肉付きが良いのは自覚しているが、普段鍛えているだけあってそれなりに筋肉も付いている。だからきっと頭を乗せたってそんなに気持ちよくはないだろうと思うのだが、それでも阿部は安心したような表情をしていて、沖はなんだか胸の奥が締め付けられるような気がした。
「あったけーな……」
「そう?」
「ここが部室じゃなかったらな、もっとのんびり出来んだけど」
「じゃあ今度、時間のあるときにまたやってあげる」
 左手を横たわる肩に置き、右手で短い髪の毛をすく。時々、頭皮に手が触れて温かさを感じる。
「その代わり、オレにもやってね」
「何を?」
「膝枕」
「……オレの膝の方がお前よりごつい気がすっけど」
「良いよ、それでも」
 愛おしそうに見る視線に気が付いたのか、阿部は横目でこちらをちらりと見ると、肩に置かれた手に自分の手を重ねた。
 沖の手も阿部の手も、新陳代謝が良いのかどちらも同じくらい熱い。
 重なったそこに意識を集中させると、血液の流れに乗った心臓の鼓動が届いてしまいそうだった。
「あんまり、膝枕ってしてもらった記憶ねえな……」
「ふうん」
「母さんの膝の上は、気が付いたらいっつもシュンがいたんだ」
「……」
 掠れるような声でぽつりと呟かれた言葉を、沖は拾い逃すことが出来なくて髪の毛をすいていた手を思わず止めた。
 こんな弱気な発言は、いくら二人で人には言えないような過ごし方をしている時でさえ聞いたことがない。
 何か、あったのだろうか。
「……」
 こうやって甘えさせてやっているくせして、いつまでたっても肝心なことを聞く勇気は持ち合わせることが出来ない。
 止まってしまった沖の手に気付いているのか、気付いていても特に気にしていないのか、阿部は自嘲気味にくすくすと笑った。
「女々しいよなあ、オレ案外母性を求めてんのかね?」
「まあ、たまに親に甘えたくなることってあるから、そう女々しいとも思わないけど」
「そうじゃなくて、沖にそれを求めてんのかなってことだよ」
「……オレに?」
 思いもかけない言葉に、沖は目を丸くしてしまった。
 今までだってそんなことは考えたこともなくて、ただ阿部が甘えてくるのは、想い合う同士だからこその自然なことなのだと思っていた。
 弱さをさらけ出したい、気付いて欲しいから自分に寄り添ってくるのだと、そう思っていた。
「ダメだな、……こういうこと覚えると、どんどん自分が弱くなる気がする」
「なんか、阿部らしくない」
 もっと、その弱さをさらけ出してくれても良いのに。その為に自分が今ここにいるのではないか。
 搾り出した言葉と思いが裏腹で、沖は肩に置いた手に少しだけ力を込める。
「……あんまりのんびりもしてらんねえな。モモカンに名に言われっか分かんねえ」
「……」
 むくりと起きて立ち上がった阿部は、右手をすっと差し出し沖も立つように促す。だが、沖は下を向いてその手に気が付かないふりをして一人で立ち上がった。
 その行動に阿部は一瞬、あれ?というような表情をしたが、深くは疑問に思わないようだった。
「行こうぜ」
「うん」
 部室の扉を開けながら沖は思う。
 阿部が母性を求めるというのなら、男である自分にその欲求はたぶんずっと満たせない。満たしてあげることは出来ない。
 それは立場が違ったとしても同じことで、自分が阿部にそれを求めたって満たされることはないのだ。
 これが何を意味するのか。もしかしたら近い将来、阿部の心は自分から離れて行くのではないかという不安を、沖は懸命に噛み砕いて飲み込んでしまおうと顔を歪ませた。



 沖限定でたまに甘える阿部さんてどうなの、良いじゃない!と思って。
 母性を求めるのは本能の回帰というか、このままではいられない不安が付きまといますねという。


2010.9

ブラウザバックでお願いします