触れた唇を指でなぞってあの時の感触を思い出す。
(ああ……)
 情けないことに、驚きと動揺でいっぱいで何も思い出せない。
 あの時確かに阿部とキスをしたはずなのに、沖は近づく彼の顔と、その後の蹲る小さな背中しか覚えてはいないのだった。
(なんだっての……)
 こっそりひっそり、いつの間にか彼に抱いていた恐怖は愛情に変わっていた。
 それは向こうも同じで、自分に抱かれているイライラがいつしか色を変えていることに、沖は気付いていた。
 例えば、
(まなざし)
 優しい目で自分を見る。あれだけ何か忠告をする度に鋭い射抜くような目でこちらを見たのに、いつの頃からかそれが消えていった。
(言葉)
 棘がなくなった。三橋同様に沖がびくつくのを嫌ってかも知れないが、一呼吸おくときがある。
 そしてなにより、
(前よりも)
 触れてこなくなった。
 これに関しては、以前からそうであったわけだが、マウンド上でも手を合わせて温度を確かめることをしなくなったのだ。
 だから仕方なくこちらから阿部の手を掴むしかないのだが、そうすると決まって彼はびくついた。
 まるで、触れて欲しくないとでも言うかのように。
(これじゃまるで立場が逆転だ)
 沖は教室の窓から外を見て、一つ小さなため息をついた。
 目の前に広げられた弁当は手付かずで、胸がいっぱいで食べる気がしない。これではまるで恋する何とかという奴である。
 おかずを端で掴んでは戻しため息を付く、を繰り返す沖を見て、一緒に弁当を広げる西広は少しおかしそうに笑った。
「なんだか恋する乙女だね」
「気持ち悪いこと言うなよ、俺一応、男なんだけど」
「一応がつくんだ?」
「もう、茶化さないでよ!」
 むすっと膨れ面をしながら、沖は弁当箱を片付け始めた。
「え、食べないの?」
「今はいいんだ、後で食べる」
「マジで恋でもしてんの?」
「……違うよ」
「そうなんだ?」
「だから違うって!」
 否定はしたものの、西広には伝わってはいない。赤く熱を上げる自分の顔に、ごまかしは効かないと悟ってしまった。
「……詮索はしないけど」
「うん」
 西広は優しくて、ついつい沖は甘えてしまいそうになる。だが、相談してみるのも一つの手だと思った。
「正直、どうしたらいいのか分からないんだ」
「うん」
「うまく言葉に出来なくて、でも伝えたいことがたくさんあって、悩む。だけど、そう考える時間が凄くもったいないとも思うんだ……」
 そう、考える時間がもったいない。
 悩む時間があるのなら、全てを伝えてしまいたい。恐らく、自分のしてしまったことに悩み、誤解をしている阿部に想いを伝えてしまいたい。
「なのに、前に進めないのは何でなんだろうな」
 窓の外に広がる青空を見つめて、呟くような沖の話を黙って聞いていた西広がゆっくりと口を開く。
「それは、沖に勇気がないからだと思うよ」
「……え?」
「伝えたいことがあって、時間がもったいないと思うなら、伝えてしまえば良いと思うんだ」
「だ、だけどさっ」
「先のことは後で考えれば良いんじゃないの? 結果がどうであれ、心を決めて伝えてしまった方が楽だと思うな。覚悟を決めた分、答えも見つけやすいと思うよ」
 沖は言葉を失ってしまった。西広のくれたそれは、自分が一番欲しかった答え。
 昨日の阿部は果たしてどうだったのだろうか。確かに先を見据えないものではあったが、あの様子では心を決めて行動したようには到底考えられない。
 だから後悔したのだ。
「なんだ、そっか……」
「お?」
 沖は、椅子の上でふにゃりと崩れる。
「西広、ありがとう。おかげで心が決まった」
 阿部はきっと今も一人後悔して、答えも見つけられずに出口のない迷路を彷徨っている。ならば、沖に出来ることは一つしかない。
「青春してんなあ」
「だから茶化すなよっ」
 沖自身が持っているものが答えであるならば、道を指し示し、出口を教えてあげよう。
 その先のことは、二人で考えれば良い。
 彼がいるであろう場所に向かって、沖は一直線に走った。


 案の定、狭い部室には阿部が一人で佇んでいた。
「沖……!」
 突然現れた沖に、阿部は一瞬目を見張ったが、それだけですぐに目線を遠くに向けてしまった。
 恐らく昨日のことをまだ引きずっているのだろう。
「何しに来たの? 引っ叩きにでも来た?」
「そんなことしないよ……」
「昨日はごめんな……、忘れてくれ」
 自嘲気味に笑った阿部の口から出てきたのは、思いがけない言葉だった。
「え?」
「どうかしてたんだな、俺。部活のこととかテストのこととか、これからのこととか色々あって、こんなの言い訳にもなんねえけど、……悪かった。嫌な思いさせてごめんな」
「そんな……」
 阿部の誤解は相当深く、話がややこしい方向へ進んでしまっているようだ。
 いやだ、いやだ。
「昨日のこと、なかったことになんてしないで。それは、お、俺が嫌なんだ!」
 思わず阿部のシャツを掴んでそう叫んでいた。
 当然、予想もしていない答えだったのか、驚きの表情で沖の方に視線を向ける。
「お前、なに言ってんの?」
「やっ、その、あの」
「忘れろよ、俺も忘れるから。っつーか、俺は覚えていたくないんだよあんなこと!!」
「……!?」
 久しぶりに聞く棘のある怒鳴り声に、沖は思わず掴んでいたシャツを離し後ろへ下がる。
 これは、拒絶の声色だ。
 きっと今の状態では、どんな言葉も彼には届かないのかもしれない。このまま恐怖に負けて逃げてしまおうかとも思ったが、教室を出る際に固めてきた決意を思い出し、もう一度阿部に対して向き直る。
 そんな沖を見て、再び阿部は目線を外して下を向いてしまった。
「……あ、阿部がそうしたいなら、それでも構わない」
 まだだ!
「でも、俺だけは、覚えていても良い? 忘れたくない……う、嬉しかったから……阿部のことが、好きだから!」
 相変わらず阿部の顔は床を見詰めたままだ。それでも構わない、今の自分の願いだけでも伝えようと、沖は頭を下げた。
「だから、俺だけには思い出として残させて、残しても良い許可を下さいっ」
「……」
 頭を下げて数十秒、相手からの返事はない。
 もう数十秒待ってみようかとも考えたが、これが彼の答えなのだと思った。
「……なんか、ごめん。俺、戻るよ」
 沖は泣きたいのを堪えながら部室の入口に向かって歩き出した。



1回目が短かったので少し長めになりました。
先生は沖の想い人を誰なんだろう?くらいに思って、深く考えないと思います。でもいつか相手が阿部であることに気付いてしまう気もします。で、栄口辺りと悩む。
次で終わりになります。


2009.8


ブラウザバックでお願いします