衣替え



 今日一日、朝から違和感を覚え教室でぼんやりと考え事をしていた阿部は、背後をふわりと風が通ったことに気がついて、右肘について寄りかかっていた顔を起こした。
 視界の端に茶色のふわふわが見えて、姿勢を直してもう一度顔を上げると、水谷がベランダの入口へ向かうところだった。
 なんとなくそのまま視線で後を追うと、クリアになった頭の中に嫌な音が響いてくる。
「雨……?」
 意識が別のところへ飛んでいた為に全く気付かなかったらしい。
「ねー、雨降ってきちゃったよ」
 サッシを開けて外を眺めていた水谷は、釣られて外の様子を伺いに来た花井と共に阿部の席まで戻ってきた。
 授業も清掃も終わって、HRを行えば後は部活に向かうだけだ。
「今日、雨降るって言ってたっけ?」
「わかんない。でも降水確率低かったよ」
「へえ、お前ちゃんとそういうのも確認してるんだ」
 割合と大雑把なところもある水谷の行動が以外だったようで、花井はもの珍しそうに彼を下から上まで眺めている。だが、それが気に入らなかったらしく水谷は口を尖らせた。
「あーやだやだ、人を見かけで判断するなんて最悪」
「誰もんなこと言ってねえじゃん」
「同じだよ」
 んべっと舌を出す水谷はそのまま無視をして、花井は阿部の机に肘をかけてしゃがみこむ。目線が少し下になって、ああ、真面目な話だと唐突に思った。
「今日の練習な、たぶん外は無理だと思うんだけど」
「っか、ぜってー無理だろ」
「だからとりあえず、着替えたら体育館集合っつことで、他の奴らにも回して欲しいんだけど」
「じゃあ、オレ、三橋んとこ」
「あ、9組はオレ行くよ〜」
 それならばと言い掛けた阿部の言葉を遮ったのは水谷だ。いつの間にかしゃがんだ花井の頭に手を乗せて会話に参加している。
 どうせなら、そのまま一緒に準備をして練習に向かった方が何かと都合が良いと考えていた分、阿部は思わずいつもの大声を上げた。
「は? なんで?」
「向こうのクラスに用があんの」
「どうせまた教科書借りた系だろ」
「違うよ! 教科書貸した系だよ!」
 自分の頭に乗せられた手を振り払いながら花井が立ち上がり、胡散臭そうに水谷を見る。
 毎回忘れているわけでもないが、どうも教科書を誰かしらに借りているイメージが強いだけ、本人の言葉に信用が持てないのだろう。
「系ってなんだ系って……。じゃあ、オレは栄口んとこにいくから、阿部は3組行って来てくれ」
「……3組ね」
 主将・副主将つながりで花井が1組なのは分かるので、巡り巡って結局自分が3組に行く事になり、阿部は何とも言えない微妙な気持ちになった。
 別に行くのが嫌なわけではない。
 ただ、あまりお互いの教室を行き来しないので、気恥ずかしさを覚えるだけだ。
「じゃ、そういうわけで」
「はいよ」
 ちょうど話が済んだとところで担任が教室へ入り、二人はそれぞれの席に戻った。


「今日は室内練習に切り替えだから、体育館集合な」
「了解」
「……沖は?」
 3組の教室の後ろの入口に立ち、タイミング良くロッカーから荷物を取り出していた西広を捉まえ連絡事項を伝えていた阿部は、そう言えばと教室内を見渡した。
 いつもなら何かあって野球部の面々が来ると、どうしたの〜?と寄ってくるはずの沖がいないのだ。
 だが、尋ねられた西広も初めていないことに気付いたらしく、きょろきょろと教室内を探す。
「あれ? そういや、掃除から戻ってきてないかも。気付かなかった」
「いや、気付いてやれよ……。で、場所どこ?」
 あっけらかんと話す彼を見て、席は沖の斜め後ろのはずなのに、良くまあ気がつかないもんだなと阿部は呆れた。
「今週は……進路指導室だね」
「ちょっと行ってくるわ」
「じゃあ、オレ先に行ってるね」
 荷物をバッグに詰めながら片手を上げる西広に、こちらもまた片手を上げて挨拶すると、阿部は3組を後にして進路指導室を目指す。
 もうすでにどのクラスもHRを終えているため、教室から出て行く生徒が殆どで、そこを逆行してくる者など殆どいない。
 自分を追い越していく人、たまにすれ違う人、それぞれを視界の端に捕らえながら、阿部はどこかしら自分の中にある違和感の意味に気付けないでいた。
「なんか……あったような気がすんだよな」
 季節的なものだったような気もするけれど、特に気にする必要性もないように思う。だが、喉元まで出かかったそれが気持ち悪く、阿部はシャツの襟元を掴むと軽く仰いだ。
 階段を下りて真っ直ぐ進路指導室にやってくるが、既に掃除は終わっているらしく誰もいない。
 結局すれ違いになってしまったのか、諦めて部活に向かおうとした時、
「あ、阿部」
 いつもの聞きなれた声が聞こえて振り向くと、金属製のごみ箱を持ってずぶ濡れでこちらを見ている沖が立っていた。
 その予想外の姿に阿部は、ぽかんと口をあけてしまった。
「……お前なにやってんの?」
 一体どうやったらただの掃除でそういう状態になるのか、さっぱり理解出来ない。
 それは表情に出てしまっていたようで、阿部の質問に、沖は肩をすくめて恥ずかしそうに下を向いた。
「えー、だって焼却炉にゴミ捨てに行ったら急に降ってくんだもん。止むの待ってたけど全然止まなくて、だから走ってきたんだよ」
「……あ、そう」
 いつもの癖のある髪がぺたんとおでこに張り付いていて、その毛先からは水が滴っている。それだけでも充分そそられるのに、白い半袖のシャツは濡れて下の肌が透けて見えた。
 冷えているだろうその首筋に、顔を埋めたら気持ちが良いんじゃないだろうかと、邪な思いが湧き上がる。
「なんか用だった?」
「ん、ああ、今日の練習だけど――」
 ごみ箱を持って濡れたまま話し込む姿が珍しいのか、二人の脇を通り過ぎていく生徒達はその殆どが、こちらをちらりと見ていく。
 さすがにこのままでは風邪を引くし、何より部活に遅れてしまう。さっさと片付けさせて先の行動を促そうとした時、こちらを見ていく生徒達の中の一人に視線が止まった。
 白い半袖タイプのセーラー服。阿部の中で今日一日抱き続けていた違和感の正体が、ぱちんと弾けて中身を現した。
「そっか、今日から6月か」
「は? 今更なに言ってんの?」
 ぼそりと呟かれた言葉を拾って沖は訝しげに首を傾げるが、阿部はただ一人納得して、なるほどねー……と、その生徒の後姿を追った。
 ここ西浦は基本的に私服で標準服というものがないため感覚が薄れてしまっていたのだが、今日から6月ということはつまり、冬服から夏服への衣替えの日ということだ。
 暑ければ半袖で、涼しければ長袖といったその場の気候に合わせて過ごしていたため、中学の頃と違って衣替えの行事など全く気にも留めてはいなかった。
「そういやお前も、今日からシャツ1枚なのな」
「うん? 衣替えだからね、ベストはやめたんだ」
 ある意味、衣替えありがとう的なところもあるんじゃないかと阿部は思う。
 髪を滴る水は、どんどんシャツに零れていって、肌が透けて見える範囲を大きくしていく。ベストを着たままだったら、この光景は見れなかっただろう。
「ここが学校じゃなかったらなあ、すげえ勿体無いよなあ」
 ぼそりと呟かれた阿部の言葉の意味を瞬時に理解した沖は、頬を赤らめると困ったような表情になった。
「どうせすぐ着替えちゃうもんね……!」
「じゃあ、また雨の日にゴミ捨てに行ってもらって」
「い、行かないから絶対!」
「濡れた姿もなかなか可愛いよ、沖くん」
 逃げ場を求める沖が面白くて、意地悪く口元を上げながらからかっていると、ばしゃっと音がして突然頭から水を浴びせられる。
「え?」
 何が起きたのかさっぱり状況の掴めない阿部は、目の前の相手がずっと手にしているごみ箱と本人とを見比べてようやく気が付いた。大胆な行動をした割に小心者の彼は、なるべく目線を合わせないようしながら、少しずつ少しずつ進路指導室の中へ歩を進める。
「雨の中戻って来たからさ、ちょっとは溜まってたんだよね」
「……」
「ぬ、濡れた姿も、なかなか可愛いよ?」
 そっと部屋の片隅にごみ箱を戻すと、先程、阿部がからかった言葉をそっくりそのまま言い放つ。そして、彼の眉間の皺が寄って怒鳴られないうちにと一目散に走り去ってしまった。
 なにも理由がなく唐突に水を掛けられたらすぐに怒鳴り散らしていたのだろうが、今回は欲を含めてからかった自分に非があると分かっているので、阿部は腰に手を当てて軽くため息を吐いた。
「……衣替えも案外良いな」
 そう楽しそうに呟く阿部だったが、この後、ごみ箱に入っていた水を掛けられたことで、生臭いニオイに苦しめられることになるとはまだ気付くわけもなかった。



 雨に濡れるシャツと透ける肌には勝てないと思うのです。
 沖も阿部もシャツの下にはきちんと下着を着ているでしょうけども、それも含めて。


2010.7
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