青空



「おおー!」
 夏が近づくにつれ夜明けの時間も段々と早くなって行き、今まではまだうっすらと暗がりが広がっていたのに、今はとっても明るい。朝練へ向かう道すがら、沖は自転車を漕ぎながら空を見上げる。
 まだ明け方はひんやりとした空気が残っていて、Tシャツの袖口から入ってくる空気がくすぐったくて心地が良い。
「今日も晴れそうだねー」
 まだ大方の人間が活動前なのを良いことに、のったのったと自転車を漕ぎながら空を見続ける。
 こんなこと、人の往来の多い昼間だったら絶対に出来ないことだ。
 握る自転車のハンドルが時々ぐらついて、それでもなんとか持ち合わせのバランス感覚を駆使して前に進む。
「……」
 ただにこにこと幸せそうに空を見ていた沖だったが、ふとあることを思い立ち、漕ぐのを止めてブレーキをかける。
 そして、前カゴに入れたスポーツバッグのポケットを漁ると、携帯電話を取り出した。
「せっかくだから」
 そう呟いて携帯を空へ掲げるとその風景を写真に収め、そのままメールに添付して送信ボタンを押す。
 本人が気付くとも限らないし、どうせすぐ練習で会うのだからと、件名も本文も入れてはいない。それでも沖は満足で、携帯を仕舞うとハンドルを握り、今度はきちんと真っ直ぐ前を見て走り出した。
 の、だが。
「わっ、え?」
 マナーモードに切り替えていなかったので、大音量で携帯が鳴り出し、沖は慌ててバッグを漁るが、突然両手を離したためかハンドルがおかしな方向へ回転して自転車が倒れそうになる。
「あーもう、ちょっと待ってちょっと待って!」
 一人大騒ぎをしながらも何とか取り出すと、ぱちんと音を立てて画面を開く。そこに表示されていたのは、先程、件名も本文も入れずにメールを送った相手の名前だ。
「うわあ、あいつはええ……」
 まさかこんなに早く、しかも通話で来るとは思いもしなかった分、少しビビッてしまうがいつまでもそれを眺めているわけにもいかない。
 阿部隆也――そう表示された画面から目を逸らすと通話ボタンを押した。
「お前、朝から暇だね」
「ん、おはよ」
 出るなり飛び込んできたのは、おそらく先程送られたメールに関することだ。けれど、朝はきちんとおはようと言いたい沖は、一度その質問を無視して挨拶をした。
「……はよ。で、なくて」
「別に良いじゃん、これくらい」
「……、誰も何も言ってねっつの」
 確かに責められたわけではないけれど、折角送った写真を無下に扱われて良い気はしない。
 沖は携帯越しじゃ見えないだろうなと思いつつ、面白くなさそうに口を尖らせた。晴れ渡った空は真っ青で、見上げると眩しくて目に沁みてつい涙が出そうになる。
 ただ、そんな気持ちの良い景色を自分一人で堪能するのはもったいないので、阿部にも見せてあげようとしただけなのだ。
「じゃあ、また後でね……」
 そう言って通話を切ろうとした時、携帯の奥で何か呼び止めるような声が聞こえて、離しかけた携帯を再び耳に当てる。
「そうじゃなくって、朝っぱらから一人で騒いでうるせえなと思っただけだよ」
「……え?」
「鈍感な奴だな。沖、後ろ」
 だんだんと携帯の向こうの声が近くなると同時に、自転車のペダルを漕ぐ音とブレーキを握る音がもう片方の耳にも入ってくる。隣りに人の気配を感じてゆっくり顔を向けると、携帯を耳に当て、片手で自転車のハンドルを握る阿部がいた。
「お……は、よ」
「なにビビッてんの?」
「え、いつから?」
「お前が前方不注意でチャリこいでるときから」
 どうやら、携帯で空の写真を撮っていたことも、大音量の携帯に焦っていたことも、阿部からの素早い着信にちょっとだけ肩を落としたことも、全て見られていたらしい。
 沖は猛烈に恥ずかしくなって、携帯をぱちんと閉じてバッグへ仕舞うと、ハンドルに両腕を預けて顔を隠してしまった。一人音頭状態を見られていたなど、恥ずかしくて堪らない。
「メンタル弱過ぎね?」
「だってどうせ誰も見てないって思ってたんだよ」
「考えが甘いんだよ、ばーか」
 顔は見えないけどきっと阿部は呆れている。沖はその様子を想像してますます顔を上げにくくなった。
「そんな落ち込むことか?」
「阿部にとってはそんなかもしれないけど、オレには結構ダメージが大きいんです」
 こんな時、消極的な自分の性格よりも、横柄な阿部の性格がちょっとだけ羨ましくなる。
 もっとも、我がままでケンカ腰の自分など想像も出来ないのだけど。
「いい加減、顔上げろよ」
「だって」
「だってじゃねえ、っつ、の!」
「!?」
 いつまでも顔を隠したままの沖にイラっと来たのか、シャツの後ろの襟首を掴むと、無理矢理起こしにかかった。
 だが、突然のことだったので抵抗する余裕すらなく、すんなりと顔を上げてしまった。
「朝っぱらからうぜー、お前マジうぜー!」
「え、ええ、ご、ごめん」
 襟首を握ったままの阿部は、沖が逃げないようにと思ったのか、自分の方を向かせて顔を覗き込む。
「や、近い……」
 それが予想外に近いので、沖は目を逸らして固まってしまった。
「そろそろ、こんくらいの距離にも慣れて欲しいもんだよ……」
「……」
 自分に視線を外されてしまったのがそれなりにショックだったのか、阿部は少し寂しそうにそう言うと、掴んでいた襟を離して前へ向き直ってしまった。
 別に嫌だったわけではないし、きっと彼だってそれは分かっていると思う。けれど、時々こういう自分の逃げの姿勢が嫌になる。
「阿部」
「ん?」
「今なら誰も見てないよね?」
「……は?」
 沖がそう言いつつ周りを確認すると、阿部も釣られて自分達の周囲をぐるりと見渡す。まだまだ早朝なので、人や車どころか動物すら殆どいない。まあこの際、鳥がいるのは見ないことにして。
 そこまで考えて、沖はちょっと神経質すぎたかなあと心の中で笑った。
「ちょっとお顔を」
「?」
 ちょいちょいと手招きすると何の疑いもなく顔を寄せてきたので、沖はそのまま阿部のシャツを掴んで自分の方へ引き寄せた。
 それほど力は入れなかったので、お互いにバランスを崩すこともなく、さっと唇を重ねるとすぐに離してしまった。
「あのさ……」
「うん、まあ、慣れつつあると思うんだよ、自分的には」
「ビビリなのかバカなのか、時々お前が分からねえよ……」
「そ、それって褒めてないよね?」
 呆れた阿部の言葉に目を細めると、沖は自転車のハンドルを握りなおしてペダルに足をかけた。
 止まっていた2台の自転車はゆっくりと動き出し、並んで道を進んでいく。
「で、オレの送ったメールについては何もないの?」
「メール?」
 そういえば空の写真について一言もないと気付き尋ねるが、阿部はぽかんとしてこちらを見るので、沖は怪訝な顔つきになってもう一度聞く。
「送ったじゃん」
「知らねえ」
「え? それで電話してきたんじゃないの!?」
「たまたまお前を見かけたからだよ」
 てっきり自分を見つけたらメールが来たから、それで携帯にかけてきたのかとばかり思っていたのだが、そうではなかったらしい。阿部はバッグに突っ込んだ携帯を片手でもぞもぞ探していたが、それを沖はやんわりと制する。
 せっかく送ったのにさらりと流されてしまったのではやるせないが、まだなのなら急いで今見てもらう必要もない。
「なんだあ……。でも良いや、後で見てくれれば」
「?」
 もう一緒に見てしまったし、その青空の下でキスも出来たし、願わくばメールで送った写真が思い出として残れば良いと沖は思った。



 青空の下でちゅーさせるのが目的でした。
 お互いの距離感がちょっとずつずれていて、それが縮まっていく過程が個人的には好きです。


2010.7
ブラウザバックでお願いします