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机の上に広げたお気に入りの写真週刊誌――。 そこには沖の好きな和服美人の後姿があり、うなじに垂れた後れ毛がとても印象的で、それを眺めながら声を押し殺しズボンの中に入れた左手をゆっくりと動かす。頭の中ではその女性が自分の手によって乱されており、目を閉じて妄想の中の光景を焼き付けるように手の速度を上げる。 高まりが頂点に達して解放されそうになった瞬間、その女性は阿部の姿に変わった。 「あっ」 そう思ったときにはもう遅く、椅子にだらしなく背を預けると、白濁の液体で汚れたままの左手をぶらりと垂らして、沖はすっと顔を歪ませた。 また明日 部活を引退した三年生にとって、学校終了後の本文はやはり勉強だ。図書室へ向かう者、学習塾へ向かう者、それぞれがこの後に控える受験に向けて動き始める。 それは野球部も同じであり、一部のメンバーを除いた進学希望組は各々勉強する場を求めて教室を後にしていた。 「栄口ー」 「お、阿部じゃん。どうしたの?」 HRが終わり、疎らに帰り支度を始める生徒に紛れ、チームメイトの名前を呼ぶ。 「沖いる?」 「いるよー。おきー!」 ベランダで何やら片づけをしているらしい人影が、名前を呼ばれて振り返った。 「何やってんの? あいつ」 「文化祭で使った備品の整理してんだよ。沖、実行委員にされてたから」 「ふーん」 そういえば、そんなことを言っていたような気がする。阿部にとって文化祭は進んで参加したいと思えるものではないため、一年生の頃から部活を言い訳にしてはのらりくらりと避けてきたイベントだ。それなので、沖が実行委員会で何をしていたのか、さっぱり分からない。 汚れた手を軽く叩きながら、沖がこちらへと歩いてきた。 「忙しそうだな」 「今日中に片付けないといけないものがあるんだ」 「やっぱ手伝う?」 困ったように苦笑いをする沖に、栄口が心配そうに尋ねる。この口ぶりだと、一度、申し出て断られているのだろう。 「栄口、今日は塾の日だろ。大丈夫だよ」 「でも……」 聞けば、実行委員はもう一人いるのだが、やはり塾の模擬試験があるとの理由で先に帰ってしまったらしく、特に用もなかった沖が片付けをしているとのことだった。委員の仕事であるとはいえ、一人でこなす沖が、栄口は気になるらしい。 ちらりと教室の時計を見て、阿部はふと思い立った。 「じゃあ、オレ手伝うよ」 「え?」 その提案に、沖は少し顔を引きつらせた。だが、阿部も栄口も、それには全く気がつかない。 「ちょうどお前に用だったし、そのついでに片付け手伝ってやっからさ」 「用って……?」 「この間、お前に数学の解説本貸しただろ。それ返して欲しいんだけど」 「かいせつ……ああ、そうだった。ごめん、今日までだったよね」 最初は心当たりが思いつかないようで目を泳がせた沖だったが、すぐに思い当たり、ごめんと手を合わせる。 「阿部の解説入ってるやつ? 今度、オレにも貸してよ」 「いいけど、次は巣山に貸す予定なんだ。だから、巣山から借りて」 「おう、分かった! サンキュ!」 それぞれの得意分野を生かして、一年生の頃から野球部メンバーはお互いの苦手な科目を補っており、阿部は数学を担当している。 沖への貸し出し期限が今日なので、こうして教室まで尋ねてきたのだった。 「じゃあ、オレ帰るね」 「おー」 「また明日」 手を振り教室を後にする栄口の後姿を見送ると、二人は再び向き合った。 「で、どれ運べばいいの?」 「ああ、えっと……こっちの」 ベランダにはバーベキューで使うような鉄板や、それらの器具が置いてあった。洗ってはあるようだったが、煤汚れが残っており、抱えると手が黒ずんだ。 「お前らのクラス、調理だったの」 「知らなかったの? お前、文化祭なにやってたんだよ」 「まあ、店番的な」 「うそつけ。オレ行ったけど、阿部は帰ったって言われたよ」 「毎年そんなんだから、どうしてたか忘れたなー」 「……ほんと、よくそれでクラスでやっていけるよね」 沖は呆れたようにため息をつく。 この言葉は毎年のように聞いてきた。確かにクラスに貢献しない阿部を良く言わない者もいるが、その分、部活での頑張りを評価されているので、何かペナルティを受けることもない。部活を引退した後、率先して後輩の指導を買って出ているのを皆、知っているからだった。 「これどこに運べばいいの?」 「特別棟の倉庫」 「……あったっけ、んなとこ」 「ブラバンの準備室の隣り……倉庫にしてるんだって」 「へー」 二階の渡り廊下を通って特別棟へと向かう。 普段、人の多い教室棟と違って空気がしんと張り詰めている。芸術や家庭科の授業以外で使う機会が殆どない阿部や沖にとっては、ある意味、未知の領域に当たる。 文化部はこちらの棟を使用しているところが多いので、人がいないわけではなく途中、幾人かとすれ違うが、やはり見慣れない空間に飛び込んだかのような錯覚を覚えた。 吹奏楽部は音楽室が最上階にあるため、備品を抱えながらそこまでの階段を上るのは少しきつい。しかし、上へあがるにつれて様々な楽器の奏でる音色が耳に飛び込んでくる。この夏、熱いグラウンドで聴いた、懐かしい音色だ。 「ここだよ」 一つの部屋の前で立ち止まると、沖は持っていた荷物を降ろしてズボンのポケットから鍵を取り出した。 「……鍵」 「ここから借りたの、うちのクラスだけだから預かってるんだよ」 扉をがらりと開けると、カーテンの閉まった薄暗い部屋に足を踏み入れた。 棚や床には色々な備品が置かれていて、倉庫として使用されていることがひと目で分かる。沖は更にその奥へと進んで、部屋の隅に持ってきた荷物をまとめて置いた。阿部もまた、それに習って抱えた荷物を下へ降ろす。 「ごめんね、手伝わせて」 「別にいーよ、それは」 両手は煤で少し黒くなっていた。開けたままのドアの向こうから、合奏が聴こえてくる。 少しの間、誰も通らない廊下を眺めていた阿部は、おもむろにそのドアを閉めて内側から鍵をかけた。 「……え、なにしてんの?」 突然の行動に、沖はびっくりしてこちらを見た。 「手伝ったんだから、少しはいいだろ?」 「あ、阿部? なに、を」 近づく阿部から逃げるように沖は後ずさりする。しかし、もともと部屋の隅にいたので、すぐ窓に背が当たり追い詰められてしまう。 「ちょっと、や」 タイミングを逃すまいと、隙を突いて顔を寄せる。 阿部はただ、キスをしたら終わりにするつもりだったのに、沖は異様に怯えた。肩が震えていたので、軽く唇を触れ合わせるだけにして身体を離すと、目の前の相手が泣きそうな顔で頬を赤く染めているのに気がついた。 「沖?」 「鍵、閉めてくから先に帰って」 「え、なんで」 「お願いだから、早く行ってよ」 非難するかのような口調に、阿部は一瞬怯んでしまって、少し強引にやり過ぎたかと己を恥じた。だが、沖の様子がどうもおかしいので、去るに去れず立ち尽くす。 「なあ」 「帰れって言ってんだろ!」 そう突き放す沖のある変化に、阿部はふと気がついてしまった。確信が持てたわけではない。だが、恐る恐る口を開く。 「……もしかして、勃ってんの?」 「!?」 自分でも半信半疑だったが、この言葉は彼にとって図星だったらしく、涙を零しそうな表情で顔を上げた。 「マジで?」 「みっ、見ないでよ」 そう言うと、沖は溜まらず蹲った。今まで沖と過ごしてきた中で経験したことのない状況に、戸惑い、どうしたら良いのか分からなくなってしまった。男女の恋愛の場合、男は女を押し倒すのかもしれないが、今、目の前にいるのは自分と同じ男だ。 沖のことは好きだしキスもするけれど、性としての対象になりうるかどうかは考えたことがない。今ここで蹲っている男は、可哀想なことに自分をそう見ていたと体が証明している。 「なんで……」 「オレ、最近おかしいんだ」 「おかしい?」 「阿部とキスすると、体が疼くんだ」 「え、なんで」 「夜も……その、一人でしてると、お前の顔が浮かんでくるんだよ」 蹲ったまま顔も上げず、沖は淡々と言葉を紡いだ。確かに阿部も定期的に溜まったものは処理するが、その行為の際に沖のことを考えたことは一度もない。自分が相手のおかずになっていたという事実に、どうしようもない恥ずかしさがこみ上げ腕で顔を覆った。 「んだよそれ」 「ごめん、ほんと……ごめん。だから阿部とキスすんのが怖くて」 「それで逃げようとしたのか」 ようやく合点がいって息を吐いた。 顔を覆っていた腕を下ろすと、目の前で小さく蹲り震える沖を見つめる。男同士の性処理の仕方が分からないわけではない。けれど、周りから伝え聞いた断片的な知識しかないし、そもそも自分たちにそれが必要になるとは思いもしなかったので、ここで使えそうなものを持ち合わせてはいなかった。 それならば――。少し考えるような素振りを見せて阿部はその場に腰を下ろすと、震える沖の肩に手を置いた。 「オレが、抜いてやろうか?」 「えっ!?」 突然の申し出に、びくりと肩を大きく震わせ顔を上げる。自分でもこんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。 「やっ、いい、いいよ! 大丈夫だから、そんなことしないで!」 当然、沖は激しく抵抗した。いくら想いの通じ合った相手とはいえ、自分の秘密の部分をさらけ出すようなことは出来ないだろう。 それでも阿部は引き下がらなかった。 「ブラバンの音で外には何も聞こえねえし、鍵はこっちにあるから開けられることもないぜ」 「そういう問題じゃないって、嫌だよオレはっ」 「トイレで処理するよか、都合が良いと思うけど」 「それだったら阿部が出てってよ、自分で出来るから!」 沖の言葉はもっともだった。何も無理に他人に処理させることはない。しかし、阿部の中に湧き上がる感情がそれを良しとはしないのだ。 相手を追い詰めるようにゆっくりと近づく。 「ほんとに嫌なの?」 「あ……べ……」 「触ってみても、いいか?」 羞恥心なのか嫌悪感なのか、沖の目尻から涙が一筋零れた。 返事を待たず、ズボンに手をかけるとチャックをそっと下ろして、下着の中で立ち上がりかけたそれを見つけた。その下着もずらして、隠されていた部分をさらけ出す。 ここまで来ると、沖もさすがに観念したのか何も言わなくなった。 「……熱い」 自分以外の、熱を持ったそれを見るのは初めての経験で、阿部は恐る恐る手で触れるとその温かさに目を見開いた。 そっと手のひらで掴んでみると、沖が反応して体をピクリと揺らした。 「やっ」 「うわ……」 目元を赤く染めて感じる様は、普段目にするAVよりもずっと官能的に思えた。 「恥ずかしいから、はやく」 「ああ」 いつも自分がするように手のひらで包んで上下に摩り、先端に刺激を与えると、それに合わせて沖の体が反応して小さく声が漏れる。 「あ……あっ、ん」 吹奏楽の音にかき消されて、外へこの卑猥な音は漏れてはいないだろう。聞こえているのはここにいる阿部だけ。 あまりにもエロいこの状況に、こちらまで勃ってしまいそうになるが、それはなんとか堪える。もし許してくれるなら、いつか阿部のそれも、沖に触ってはもらえないだろうか。マメが潰れて皮膚が固くなった手のひらは、きっと気持ち良いに違いない。 荒く息をする沖の唇に軽く触れると、そのまま舌をねじ込む。拒絶されることはなく、相手も同様に舌を絡ませてきた。ここまで深いキスなんてしたことがない。絡み合う生温かい感触が心地よかった。 さらに速度を上げて手を擦った。 「あっ、ごめ……いきそう。放して」 「このまま出せよ」 「はあ!? 嫌だって」 「いいから」 「そんな、ダメだ。あっ、ああっ……!」 今まで以上に体を大きく震わせると、阿部の手のひらにどろりとしたものがつたった。少しだけ顔に飛んだような気もするが、その殆どを手で受け止める。自分以外の精液を触るのも、初めてだ。 「なっ、見ないでよ! 早く拭いて!」 物珍しさに手に付いた白い液体を眺めていると、ぼろぼろの布のようなもので手のひらと顔を乱暴に拭い取られる。 「それ、雑巾じゃねえか!」 「しょうがないだろ、ティッシュなんかないんだから」 怒りと恥ずかしさを言葉に籠めながら、沖はこちらを睨みつけた。そしてあっという間に身支度を整えて立ち上がる。だが、やはり膝がぐらついている。 「落ち着いてから行こうぜ……」 「や、これ洗わないと……あと手も」 「雑巾だし、このまま捨てればいいじゃん」 「だから洗ってから捨てるの! こんなの付いたままで捨てられないだろ」 そういって腰を下ろし、膝の間に顔を埋める。今頃になって、嫌がる相手を無理に触ってしまったことに罪悪感が湧いてくる。 強引に拭い取られた手のひらは、まだべたついていて、なんだか鬱陶しい。 「悪かった」 「……ほんとだよ」 「オレさ、今までお前を抜く対象に見たことなかったんだけど……ちょっと、気持ちが分かった気がする」 触った時の反応と、声と、熱い息と、生暖かさ。思い出すだけで、今度は自分の体が疼く。 AVで見るような口でする行為はとても出来そうにはないが、こうして手で扱きあうだけなら、お互い出来なくもない。後は、それを沖が了承すればの話だが。 「今度」 「え?」 少しだけ顔を上げて、沖が口を開く。 「今度、お前のも触らせろよ」 その顔はカーテン越しに射す夕焼けの赤さなのか、頬が熱を持った赤さなのか、良くは分からなかったけれど小さく呟かれた言葉だけは逃すまいと拾い上げる。 「……分かった」 「そのうち、そのうちな! そういう時が来たら……」 「ああ」 珍しく積極的な態度に呆けてしまうが、もし今ここでキスをしたら、沖のいうその時になるのだろうか。 「……そろそろ帰るか」 いつの間にか合奏の音が止んでいる。話し声や人の歩く音までは聞こえてこないから、まだ練習は終わっていないのだろう。だが、後始末の必要もある。なにより、吹奏楽部には試合でお世話になっているので野球部の二人は顔が知られている。そのような中、カーテンの閉まった薄暗い倉庫から人の波に出るわけにも行かない。 「立てっか?」 「ん、大丈夫」 鍵を開けて廊下に出る。もう日が詰まって外は薄暗く、奥にある音楽室から時折楽器の音が漏れる以外は、建物の中はしんと静まり返っていた。 「それは今日返すの?」 「え、ああ、鍵? 今日でもいいけど、なんかもうめんどくさいから明日でいいや」 「じゃあ、これ片付けたら行くか」 ちらりと沖の持つ雑巾と自分の手に視線を送る。その視線を感じたのか、沖は気まずそうに先に歩き出した。 「本、教室にあるから帰る前に寄らないと」 「別に明日でもいーよ」 「なんで?」 「明日、朝一で返してもらってそんで巣山に貸す。つーかオレも、なんか色々めんどくさくなっちまった」 「ふっ」 沖は笑ったようだが、先に歩いた分の距離があって、暗がりの中ではその表情は見えなかった。歩み寄って確認してもいいけれど、予想もしていなかった形で二人の関係がまた一つ変化してしまったことがそれを躊躇わせる。 明日、一体どんな顔で会えばいいのか、口にはしないけれどお互い同じ不安を抱えていた。そして、彼の言ったその時が、案外すぐそこにあることを二人はまだ知らない。 2013.10 |