聞きたくない声



「でかい声出すなよ!」
 聞き覚えのある声が聞こえて、泉はふと立ち止まった。
 今は授業中であるし聞き間違いだろうとは思ったが、何となく、本当に何となく声のした方へ方向を変える。
 別に気にせず過ぎ去ってしまえば良かったのだと、数分後、後悔することになろうとは思うわけもなかった。


 午後の授業が始まってすぐ、いつも配られたプリント類を入れたクリアケースを、4時限目の授業で視聴覚室に忘れたことに気付いた。
 これから始まる授業で使用するものも入っていたため、泉は教師に断り、わざわざ教室等からはるばる取りに来たのだった。
 特別棟の4階は視聴覚室の他に音楽室があるのだが、今はどの授業も行われていない時間帯であったため、昼間とはいえ人気がなくしんとしている。
 軽く言い合いをする声に気付いてしまったのは、だからなのだろうか。
 声は男子トイレの方から聞こえた。
「無理。鍵借りてこなきゃなんねえし、ここより誰か来るリスクの方がでかいだろ」
 トーンを落として話しているようだったが、入口まで来ると話が先ほどよりもはっきりと聞こえる。
 やはりというか何と言うか、この声の持ち主は同じ野球部のチームメイトのものだと確信した。
 一人で会話しているわけではないのだろう、では一体誰と? 何故こんなところで?
 泉の興味は増すばかりだ。
「――」
「他に場所ねえんだから我慢しろよ」
 確信を持ってから彼の声は嫌というほどはっきりと聞こえるのに、肝心の相手の声が良く聞き取れない。
 もっと聞こえるところへと足音を忍ばせて中へ顔を伸ばした時、不意に反論する言葉が聞こえてきた。
「じゃあ阿部が我慢してよ!」
「……!?」
 泉は本当に、心底驚いた。
 この少し鼻にかかったような柔らかい声質は、同じく野球部のチームメイトのもの。
(沖だ……!)
 信じられなかった。
 普段からあまり一緒にいるようでもなかったから、そんなに仲が良い方でもないのだろうと思っていたのだ。
 その二人がどうしてこんな場所にいるのか。
 更に中を覗いて、泉はもっともっと驚くことになった。
(え、いない……?)
 てっきりトイレの中にいるだろうと思っていた二人がいないのだ。
 確かにこの中から声が聞こえたはずなのにと、中をきょろきょろ見渡して、泉はあることに気付く。
 男子トイレにも数は少ないが一応は設置されている、個室の奥の扉が閉まっていることに。
(これってどういうことなんだ……?)
 他の誰かに聞かれたくない話でもあるのなら、わざわざ男二人でトイレの個室に篭る必要なんてない。
 もちろん、女でもそんなことはしないし、ましてやここは誰もいないフロアだ。
 考えが纏まらない泉の耳に、どんっという音が聞こえ、同時に沖の呻くような声が聞こえる。
(まさか、いじめ!?)
 それならば納得がいく。
 誰もいない、誰も来ない特別棟の4階の、更には逃げられないトイレの個室。鍵を閉めてしまえば、相手を監禁したも同然だ。
 信じたくはないが、もし阿部が沖をいじめてこんなところに追い込んでいるのだとしたら、自分はそれを阻止しなければならない。それは仲間として人として当然の行為だ。
 なのに、泉の中に湧き上がる気付きたくはない思考がもやもやと広がって、それを阻む。
「声出すんじゃねえぞ」
 手にしたクリアケースを一度しっかりと持ち直すと、足音を立てないようゆっくりと歩を進めた。
 カチャッ。
 個室の中から聞こえてきたのは、確かに金属音だった。自分にも聞き覚えのある音。
 ベルトを、外す音。
「……」
 近づけば近づくほど、たくさんの音が聞こえてくる。
 ベルトの金属が揺れる音、シャツの布が擦れる音、粘液のような何かを擦る音。
 そして、二人分の荒い息遣い。
 泉は自分の心臓がどくんどくんと波打つのを感じた。
 一度耳で捕らえてしまったそれらの音は、嫌というほどはっきりと聞こえてきて、自分の心臓の音がどんなにうるさくてもかき消すことは出来なかった。
 息遣いは更に荒く、激しくなっていく。
「う、あっ……」
 これは沖の声だ。
 どうして分かってしまうのか、泉はゆっくりと後ろへ下がり始めた。
 自分がここにいるということは、知られてはいけない。二人は誰もいないと思っているのだ。そう思ってこんなことを。
「はっ、あ……べ……っ」
 最後に聞こえたのは、愛しさを込めて彼を呼ぶチームメイトの、今までに聞いたことのない、出来ればずっと聞きたくない声だった。


 出来るだけ足音を立てないように3階まで降りてきたのは、果たして泉の優しさだったのか、それは自分でも分からなかった。
 動揺して頭が混乱した中クリアケースを落とさずに来た自分を褒めてあげたいくらいだ。
「……あいつら」
 現場を見なくても、音だけで充分二人が何をしているのか分かってしまった。
 もしかしなくとも二人はそういう関係なのか、それともお互いに処理をするための相手なのか、今まで仲が良い素振りすら見せてこなかっただけに余計に混乱してしまう。
「や、どうだっていんだよ……!」
 とりあえず今は何も分かりたくはない。
 教師に断って出てきたため、泉はこのまま授業に戻らなければならない。どんな顔で戻って、どんな風に過ごせば良いのだろう。こんなこと、誰にも言えやしない。
 気持ちの整理が追いつかなくて、泉は頭をがりがり掻き毟りながら、その場をうろうろと動き回る。
 今日の部活で、二人にどういう表情を向ければ良いのか、分からずに天井を仰いだ。



「不毛な言い争い」の泉視点の話。 泉はこの後、二人が何をしてたのか、想像しては自己嫌悪に陥ります。
えろ神様が降臨したと思ったんだけど……結局はこんなもんです。


2009.12


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