◇第八話◇


 冷房のスイッチを止めてカーテンを開けると、外の眩しい日差しが飛び込んできて一瞬怯んでしまう。だがそれにはすぐ慣れて、さらに窓を開けて空気を取り入れる。
 真夏の風は生温く、ねっとりと体に纏わりついた。
 周囲の屋根に照り付ける太陽をぼんやり見つめる沖の後ろでは、阿部が机の上に出された三人分のコップを片付けていた。
 西広は否定も肯定もすることなく、ただ自分たちの話だけを聞くと、このことは誰にも言わないという約束だけを残して帰って行った。正直なところ、別れるように説得されるか、今後友人関係は持続できないと突きつけられる可能性を危惧していたので、かなり拍子抜けしてしまった。それは阿部も同じらしく、彼を見送ってからそのまま暫く廊下に立ち尽くしていた。
 洗い終えたコップを水切り籠に入れたところで、ようやく阿部が口を開いた。
「ああ言ってはくれたけど、実際のとこはどーなんだかね」
「え?」
「ちょっと事前の予想と違ったというか」
「そうだね」
 洗ったばかりのコップを布巾で拭いて冷蔵庫から麦茶を取り出し二人分注ぐと、それを運びながら沖に対して座るよう顎で促した。
「やっぱ外は暑いな」
「前は別に平気だったけどね。ああ、ありがとう」
 腰を下ろして麦茶の注がれたコップを受け取ると、一口飲んで沖はため息をついた。
「阿部だったらさ。例えば三橋と……そうだな、水谷がこっそりデキてたとしてそれがばれた時、認める自信ないでしょ」
「……ねえな。理解できなくてきつく当たるかも」
「オレは避けちゃうかなー。だって男同士とか、気持ち悪いし」
「それが普通の反応だよな」
「うん。だからもっと否定されると思ってて、逆に拍子抜けしちゃった」
「突っ込んで根掘り葉掘り聞いてもこなかった。西広ならやりそうだったのに」
 確かにあの性格ならもっと聞いてきそうなものだと思うが、さすがに空気を読んだのだろう。あるいは。
「それすらもうどうでも良かったりして……。引き過ぎて触れたくもなかった、とかさ」
「最初はこっちから行くつもりだったけど、向こうからも会おうって言ってきただろ? それはない気がするけどな」
「まあ、別れろって言われてもそのつもりはなかったけど」
 ぼそっと付け加えた一言への相手の反応を気にしてちらりと見てみるが、残念ことに耳に届いていないようで眉間の一つも動かない。
 もちろんこれは本心だが、友人関係の解消との二択を突きつけられていたら揺らいでいたかもしれない脆いものでもある。不確定な阿部との未来と今後も確実に続いていく友人との繋がり、どちらが大切なのか心の奥底では分かっているのだ。
 それでも、今はまだ共にありたいという気持ちが強すぎる。
「西広だって相当な覚悟で来たはずなんだ。2対1なんて完全アウェーじゃん」
「想像しただけでこえーわ」
「色々考えてくれたんだろうけど、きっと本音では認めてなんていないよ」
「まあ、そうだろうな」
 それでも頭から否定をしなかった。
 見られた行為がキスとか抱擁とか、軽いスキンシップであったならまた違ったであろうか。裸で身体を繋げて腰を振っていなければ――。いや、どの道、結果は同じであったと思う。
 おそらくずっと持ち合わせてきたであろう嫌悪感と、恥を押して正面を向いて対峙した自分たちへの思いと、たくさんの葛藤を繰り返しながら彼なりの答えを絞り出してくれたはず。それをどう受け止めればいいのか、沖は考えていた。
「西広って、優しいよね」
「人間出来てると思うぜ、あの人は。逃げないで向き合ってくれたんだからな」
「うん……」
 沖はゆっくりと窓の外を見た。
 眩しいくらい真っ白な雲と、くっきりとした青い空が見えた。
「なあ、阿部」
「ん?」
「キスしよっか」
「……えっ!?」
 突然の申し出に、阿部は飲んでいた麦茶を噴出した。
 汚いよと苦笑して零れた中身と飛び散った液体を拭きながら、二人の間の距離を縮める。当然、阿部は戸惑って、沖が近寄る度に後ろへずり下がった。
 しかし、それも背が壁に当たったところで止まり、阿部は腕を組んで睨みつける。
「何、いきなり」
「西広に甘えることにした」
「は?」
「あいつが見逃してくれるなら、それに甘えることにしたんだ」
 これが、西広が出した答えに対する沖の答えだった。
「オレ達だけが得をする結果でもか?」
 その意味が伝わっているのかどうか、沖の結論に疑問を投げかける。試されているのだろうか。
「そうはならない。友達の気持ちの犠牲の上に自分たちがいることって、どっちも同じくらい心は痛いんじゃないのかな」
 三人とも、もう元の関係に戻れないことくらい良く分かっている。あえて知らないふりをすることで、またいつか、何かを積み上げていく可能性を残す道をそれぞれが選択するだけのこと。それが今選べる最良の答えであり、同時に、本当に正しいのかどうか誰にも分からない答えでもあった。
「誰も得なんてしない」
「……損もしない」
 失ったものはあるかもしれない。
 友人達を欺きながら過ごしてきた日々や、阿部と沖だけが知る秘密。それらはもう、ない。
 窓から流れ込む、熱と湿気を帯びた風が向き合う二人の間をすり抜けて、瞬間、沖は阿部に押し倒されていた。
「……オレも、お前と同じ選択をするわ」
「阿部……」
「自分たちが悪いことしてるって思っちゃいねえし、そもそも、んなことしてねえし。それは向こうも分かってんだろ」
「要は気持ちの問題だからね。世間体とか常識とかの」
「大体、恋愛絡みでうだうだ悩むのは性にあってねえんだ」
 見下ろしながらふっと笑う阿部の笑顔を、沖は久しぶりに見たような気がした。
「西広には申し訳ないけど、こっちだって遊びでやってんじゃないから」
 後は、なるようにしかならない。
「……なんか阿部からそういう言葉聞くの、すげー貴重かも」
「うっせーな」
 茶化したつもりはなかったが、そう取られてしまったのだろう。
 眉間に皺を寄せていつも通り一蹴すると、今度はすぐに真面目な表情になってゆっくりと顔を近づけてきたので、沖はそのまま目を閉じた。


2013.9
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