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◇第七話◇ 学生向けに立てられた、ありふれた二階建てアパートの一室のドアの前に立ち、ゆっくりとインターホンに向かって指を伸ばす。その手は心なしか震えているような気がして、ゆっくりと握って開くを繰り返し、深く息を吐く。 この部屋のインターホンを押した経験があるのは自分だけ、そう思っていた頃が懐かしい。 目の前にある扉の向こうに、あの二人が待っている。そう考えるだけで、西広はこのまま引き返してしまいたいような衝動に駆られた。それというのも、何事もなかったかのようには出来ないから、話をしようということにはなったけれど、何か答えを出せるわけでもないのに無意味な行為ではないのかとも思っているからだ。 二人がどういうつもりでいるのかは聞いてみなければ分からないけれど、やめさせたいのか拒絶をしたいのか、西広自身の答えが出ていないので、伸ばした指でそのまま来たことを知らせて良いのか迷う。 「……」 真夏の昼間の住宅街は、子どもの遊ぶ賑やかな声とうるさいくらいのセミの鳴き声、そしてたまに通り過ぎる車の音と、近くを通る鉄道のレールを踏む音が混ざって、目の前で押したはずのインターホンがとても遠くに聞こえた。 沖に案内されるまま部屋に入ると既に阿部が来ていて、机に肘を突き、黙ってこちらを見上げている。机の上には三人分のコップが置かれ、お茶が注がれていた。洗っても残る何度も使用した跡があるコップが二つに、新品同様の趣のコップが一つ。当たり前のように、阿部の前には二つのうちの一つが置かれている。 特に挨拶を交わす必要性などお互い感じていないのだろう。しんとした空気の中、その隣りに沖が座ったので、西広は必然的に机を挟んで二人と向き合う形になった。 自分が目の前に座っても、阿部は体制を崩さず黙ってこちらを見ており、一方の沖は少し緊張したような赴きで両手を膝に置いて、視線をあちらこちらに泳がせている。その対照的な二人の並び座る様がひどく滑稽に思えて、思わず噴出しそうになった。慌てて口元に手をやるが、一瞬の仕草を阿部は目ざとく見つけたらしく、眉間に皺を寄せた。 「何がおもしれーんだよ」 「違う、緊張してんだって」 これは本当のことだ。西広だって茶化しに来たわけではない。 自分が見たこと、二人が見られたこと、そしてそれをお互いが知っていること、何も確認せず暗黙のうちに共通の認識になってしまったことについて、一度話をしなければならないと思ったのだ。 しかし、いざこうして向き合ってみると人は怖気づくのか、場に見合った切り出し方が分からない。言葉を探していると、視線を泳がせたままの沖が小さな声を発した。 「ごめん、その、なんて言ったら」 謝罪の言葉のその意味は、見せたくないものを見せてしまったことへなのか。 「オレの方こそごめん」 「なんで謝るの。西広が謝る必要なんてないよ」 「お前らだって悪くないよ。もちろん、泉たちも。状況が悪かったんだよ」 二人の前に座るまで、あれだけどう話せばいいのか思案していたのに、沖が先に口火を切ったことで案外すんなりと言葉が出てきてしまったことに驚く。 「だけど、……黙ってたことも」 「ああ……正直、びっくりしたというか」 「……」 「うやむやにすることも出来たんだけど、二人とも大事な友達だし……特に沖は、オレ、一番仲良しって思ってたから」 一番の仲良し――。 西広は、その言葉に意図的に力を込めた。 黙っていたことを謝られても、西広にとってはどうすることも出来ない。知ってしまった当初は、何故親友である自分にそれを隠していたのか腹立たしく思ったこともあった。しかし冷静になって考えてみれば、男同士で身体を重ねていることなど、誰にも言えるわけがないのだ。 ただ少し残念だったのは、当時の仲間達の中で、この部屋に足を踏み入れたのが自分だけではなかったという事実と、そのことで自分の中にあった優越感が崩されてしまったことだった。本当のことは言えなくても、卒業しても阿部と二人、友人関係を維持していることを教えて欲しかったという気持ちは、我侭ではないと思うのだ。 それの意味が伝わったのかどうかまで知ることは出来ないが、ずっと目線を合わせずに俯く沖の目が、一瞬だけ見開いたのが分かった。 「だから、オレが知ってしまったことも、二人のことも、ちゃんと話をしなくちゃって考えた」 「オレらもさ、このまま気まずくなるより、一度お前と話をして、それから気まずくなった方が良いって話をしたんだ」 今回の話の本題にようやくたどり着いたとき、それまで黙って自分を見ていた阿部が口を開く。消え入りそうな声色と態度の沖とは違って、ずっと真っ直ぐにこちらを見ており、その口調もはっきりとしている。 「聞いてもいいんだよね?」 「ああ」 「二人はやっぱり、その」 「まどろっこしいの面倒だから正直に言うけど、オレと沖は見た通りの関係だし、西広が聞いたようにセックスも、してる」 友人の口から出てきたその直接的な言葉に、西広は思わず身じろいで両手をギュッと握った。 逸らさずに見続ける阿部の目の奥が怖い。開き直りとはまた違った、まるで何かの盾にでもなっているかのような――。 「それは……いつから?」 「あー、つまり、こういう関係になったのはってこと?」 「そう」 「それは……」 「……高校の時、二年の春からだよ」 どう説明しようか迷ったのか言葉を詰まらせた阿部に代わって、沖が顔を上げた。 「えっ……、そんな前からしてるの!?」 高校二年生といったら、今から三年前ではないか。 「初めてしたのは去年の夏だよ」 「ばっ! てめっ、具体的なこと言ってんじゃねえよ!!」 「ごめん。だけど、まどろっこしいの嫌なんだろ? 全部ちゃんと話すなら、曖昧にしちゃダメじゃね?」 「そりゃっ、まあ、そうだけど」 そう掛け合いをする沖は、先程まで俯いて消え入りそうな表情で座っていた人物とは、まるで別人のようだった。 時間が経つにつれ、緊張が解けたのだろうか。今度は真っすぐに、西広の目を見つめてきた。そして申し訳なさそうに優しく笑う。 「オレと阿部は高校の時から付き合ってるんだ」 「付き合う? え、恋愛という意味で?」 「うん」 男同士お互いに恋愛感情を持っているなど、にわかには信じがたく、いやまさかと息をのむ。 確かに、色恋や性欲にあまり積極的ではなかった二人が体を繋げている理由を、ただ欲を満たしたいからという単純なものはないと考えてはいたが、それがよもや恋愛絡みなどとは思いもしなかった。机の上に置かれたコップの氷が、溶けてカラリと音がした。 「言っておくけど、オレら別にホモなわけじゃねえから」 「いや、同性でやってる時点で、ホモだと思うんだけど」 「じゃなくて、オレら二人とも最初から男が好きなわけじゃねえの」 「だって、それじゃ何で、同性が恋愛対象になんてなったの?」 「知らねえよ」 こういった話が苦手なのは高校生の頃から変わっていないようで、阿部は目元に羞恥の色を滲ませながら投げやりに言葉を吐いて顔をそむけた。 気まずそうに、頬杖をつくふりをしながら顔を隠す阿部の背中を、なだめるように沖がぽんぽんと叩く。 話を始めた当初とは打って変わって、二人の立場が変わっている。もしかしたらと西広は思った。 親友に、人には知られたくない秘密の話をすることに、沖は恐怖を覚えていたのかもしれない。そしてそれを阿部が守ろうとして、動じていないふりをしながら相手に対峙したのだろう。本当は自分だって、恥ずかしくてたまらないのに。 それを沖もきちんと分かっているからこそ、こうしてお互いがお互いの盾になり西広の前に座っているのだ。 「少女漫画とかにありがちな、たまたま好きになった相手が同性だったっていう……あれ?」 「そうだね。まあ、色々あったんだよ」 「なんで……」 そうなってしまったのか。思わずそう言いかけてやめた。 純粋に知りたいと思っただけなのだが、先程の阿部の反応も含め、そこまで果たして踏み込んでいいものなのか、分からなかった。汗まみれで、柔らかくもない体で同じ男でチームメイトで、それがどうして恋愛に変わったりするのか、西広には理解できない。 「お互い、相手が相手だから、絶対ばれるわけにはいかなくて。少しでも仲が良いとこ見せれば、どこから漏れるか分からないし」 「……うん」 「だから、西広が一番の親友だとしても、言うわけにいかなかった」 「オレも……三橋とか花井とか、今でも付き合いあるけど。卒業しても沖と繋がりがあることは、全然言ってねえんだ」 「そんな、だって別にチームメイト同士仲が良いのは普通じゃんか。それに二人はバッテリーだって組んでたわけだし」 「組んでたって、短い間だったよ。それにそういう簡単なもんでもないんだ」 二人の言う通りなのかもしれないが、少し心配し過ぎではないのかと思ってしまう。 漏れることを恐れて極力離れて学生時代を凄し、それが卒業した今も続いている。もっとも、卒業して交友の幅が広がったり逆に遠くなったことで、以前に比べれば環境は良くなったようにも思えるのだが、神経をすり減らしながら共にあり続ける意味が西広にはよく分からなかった。 「黙っててごめんな」 「嫌な思いさせて、ごめん」 二人が揃って頭を下げる。 日を追うにつれて、気持ちを静めて考えることが出来るようになった分、二人に対する嫌悪感も増していた。同性同士の交わりに理解があるつもりでいたものの、実際に目にしてしまうと、得体のしれない気持ち悪さでいっぱいで、それを黙っていた親友に対し苛立ちすら感じていた。けれど、こうして頭を下げる二人を見ているとどこか哀れで、自分が秘密を知ってしまわなければよかったのに、という後悔が込み上げてくる。 誰にも気づかれることなく、水面下で繋がってきたなんて、よほどお互いを好きでなければ耐えられないと思った。 「オレ、誰にも言わない。お前らのこと、誰にも言わないから」 「西広……」 「ありがとう。本当にごめん」 この部屋に入る前は、これからのことや二人がどういう考えでいるのかなど、聞きたいことは沢山あった。自分でも二人に対してどう接したいのか全く分からなかったし、話を聞いた今でも、嫌悪感が消えたわけでもなく何一つ答えなど出ていない。それなのに、このままそっとしておくことがそれぞれにとって最良なのではないかと今、思う。 窓を閉めてカーテンも閉め切って、冷房の音だけが響く静かな部屋に、ここへ来るときに聞いた外の暑苦しい喧騒は聞こえてこない。ただただ静かで、西広は鼻の奥につんとした痛みを感じた。 2013.7 |